川口市安行領家にある興禅院のアジサイが見頃をむかえています。変わったアジサイもあり、その種類の多さに驚きました。
興禅院は、1546年に建てられたという曹洞宗のお寺です。シャクナゲ、花菖蒲、紫陽花、紅葉などが素敵です。また、奥に行くと、斜面林が連なり、自然がいっぱい。斜面を下ると、弁財天があり、台地からわき出る水が神秘的です。また、墓地の方に行くと、関東郡代伊奈氏の重臣の墓もあります。すぐ脇には、見事なスダジイの大木がありました。
1.どこにあったか?
戸塚安行駅北東側すぐの台地部にあった。ここは大宮台地の鳩ヶ谷支台が細長く突き出した部分で、遠く筑波山をも見渡せる場所。下の地図を参照。緑の空堀に囲まれた部分が城。西側は家臣の家があったと思われる。いずれも台地部にある。現在の戸塚安行駅や戸塚スポーツセンターを見下ろすような位置。弥生時代の遺跡も数多く発見されてい場所。
2.誰がつくったか?
小宮山弾正忠孝という人。忍城主成田氏がつくらせた出城か。小宮山弾正の祖父は太田道灌の親戚。また長男は松平家の養子となり、松平信綱として出世したという。信綱は、老中として活躍した有名な人物。のちに川越城主になった。また「知恵伊豆」と呼ばれ、幕政に大いに貢献。3大将軍家光、4代家綱に仕え、島原の乱の鎮圧、明暦の大火の処理など、政治手腕は高く評価されていた。
※松平信綱に関しては、大久保久継の長男という説が有力。大久保は現在の伊奈町(小室陣屋)の伊奈忠次の配下であった。ちなみに、伊奈氏はこの後、川口市の赤山陣屋に引っ越す。(関東郡代)
3,いつごろか?
1560年、上杉謙信が関東に出兵したころに、小宮山弾正の名が見られるので、このころと思われる。1560年は織田信長が桶狭間の戦いでデビューを飾った年。
1590年に、豊臣秀吉が小田原城を攻め、北条氏を倒し、全国統一を達成。このころ戸塚城も廃城となったらしい。城としてはきわめて短命。
4.発掘調査
埼玉高速鉄道開通が決まり、駅に近く、開発整備が計画された。そこで、川口市遺跡調査会が中心となり、10回の本格調査を行う。平成14年の調査で空堀が発見される。その後も発見が進み、現地で行われた公開説明会に参加したことを思い出す。社会教育課の唐沢さん、金箱先生が説明されていた。今は、戸塚立山公園の斜面林に名残を残すが、面影はほとんどない。
(「続・埼玉の城址30選」などを参照)
今日はこどもの日。川口市自然公園に行ってみました。見沼低地にあり、湿地の自然を残した公園です。
周囲には、雑木林などの自然地が残っていることから、公園内にもカブトムシやクワガタが見られ、湿地には絶滅が心配されるメダカもたくさん泳いでいます。個人的にはアカホシゴマダラチョウに出会ってみたいです。
今日は家族連れで、子どもたちの元気に遊ぶ姿が見られました。ザイガニ取り。もうそこらにはいなくなってますね。
五月晴れ。抜けるような空。初夏の陽気。というか夏日。絶好のアウトドアの日でした。
またすぐ近くには東沼神社があります。差間の氏神様です。例年、初詣では甘酒を無料で振る舞ってくれます。今年はうちもお祓いをしていただいたのですが、巫女さんの舞もしてくれました。富士講もあります。地元では自慢の神社です。
連休の大渋滞の中、私は犬と300円ランチを屋外で楽しみました。場所は、見沼通船堀跡です。江戸時代の100年間の間、ここに見沼という水深1mから数mの沼がありました。関東郡代伊奈忠治がここに八丁堤をつくり、川をせき止めて農業用の溜池を作りました。
もともと、このあたりは低湿地で、昔から龍が住んでいるという伝説がありました。竜神伝説については後日紹介します。
1716年、徳川吉宗が8代将軍となり、享保の改革を行います。彼は新田開発に力を入れました。この見沼の地も新田開発の対象となりました。紀州から井沢弥惣兵衛(いざわやそべい)為永により大工事が行われました。八丁堤を切り、水を芝川へ排水します。そして、農業用水を60kmも離れた利根川から引いてきました。これが見沼代用水です。1727年から工事が始まり、翌年には工事が完了したというのが驚きです。
1731年、見沼代用水と芝川では、水位差が3mもあるため、運搬用の舟が通れるように、閘門式の運河を作りました。これが見沼代用水です。パナマ運河と同じようなやり方が150年前に行われていました。
川口市芝のある長徳寺に行きました。格式のある禅寺です。あたりは自然保存林にも指定され、緑が満載、木々や草花、蝶などの自然に包まれています。
長徳寺は1364年、臨済宗建長寺派の寺として建立されました。例の鎌倉の建長寺と大変関係の深い、由緒ある寺です。
徳川の世になっても栄え、特に、徳の高い住職、龍派禅珠(りゅうはぜんしゅ)の時に栄えました。彼の弟子で芝村の代官だったのが熊沢忠勝です。実は、彼の娘さんは隠れキリシタンとして処刑されようとしました。それを、幕府の高官とも交渉し、何とか許してもらうよう手配したのが龍派禅珠でした。
境内の阿弥陀如来座像(非公開)の胎内に、マリア観音と十字架が隠されてあったのが発見されたというのは有名な話です。
この季節は、青もみじが大変きれいでした。
川口市石神の交差点付近に、吉野家があるのをご存じでしょうか。
そのあたりに戦前、駅がありました。蓮田~岩槻~大門~神根を結ぶ「武州鉄道」の南端の神根駅です。
神根駅は、昭和12年(1937年)に延長され開業しました。鉄道会社は客を呼び込もうと、写真のような広告を配り、乗客を呼び込もうとしました。石神の女郎仏、五重塔のある西福寺、そして安行の植木などの川口北部の名所をPRしました。
計画では鳩ヶ谷を通り、川口駅(後には蕨駅)とつながるはずでした。しかし、深刻な経営不振と日中戦争の勃発により、昭和13年(1938年)に廃業となってしまいました。
もし、東北本線とつながっていたらと惜しまれます。
おりしも地下鉄南北線と埼玉高速鉄道が浦和美園まで開通しましたが、このような構想は以前からあったことになります。(2001年)
*写真は川口市立戸塚図書館のまとめた「戸塚ってどんなところ」から転用させていただきました。(T)
「薩摩藩や長州藩って聞いたことかあるよね。」「じゃあ、この川口は何藩だったと思う?」
小中学生は皆黙り込んでしまうでしょう。実は何藩でもないのです。幕府の直轄地(幕領、天領)だったんです。
そして、その天領には代官がいる。関東の多くの代官の大もとじめ(関東郡代という)を務めていたのが「伊那氏」です。その伊奈氏が住んでいたのが、この川口市赤山なんです。伊奈氏は赤山に立派な屋敷を構えていました(赤山陣屋)。現在では掘りなどが一部復元され、整備。保存されています。
伊那氏の民衆からの評判は良かったのではないでしょうか。このへんでは百姓一揆とか聞きませんよね。実は伊那氏は12代にわたり、様々な功績があります。
詳しいことは、また、別のコーナーで紹介させていただきます。
今朝は、天気もよく、散歩日和です。ホトトギスがあちらこちらで鳴き、川口にもまだまだ自然が残されているなあと感じました。